とりあえず思いつく本を挙げておきます

母になっても読書は日課。本の記録と紹介のブログです。(3ヶ月以内に出版されたものを「新刊」、概ね半年以内に出版されたものを「準新刊」としています)

『The lady アウンサンスーチー 引き裂かれた愛』

本当は書籍を探していたのだけれど手に入らず、DVDを借りて映画で観ました。

アウンサン・スーチーは、ビルマ(現ミャンマー)の民主化を非暴力ですすめた女性活動家で、ノーベル平和賞を受賞されています。
現在は70歳代で国民民主連盟党首に就いているようですが、そんな彼女の活動を追ったノンフィクションです。

(スーチーの略歴やビルマの社会情勢、家族についてご紹介した方が映画の内容も分かりやすいですが、長くなるので省きます)

私がこの映画を観ながら終始胸に抱いていた思いは、「国とは何だろう?」という疑問でした。
例えば日本であれば、''日本列島''や''日本国民''という実態は物理的に存在しますが、「日本」そのものの概念というと 実態のない観念的なものなのです。
その観念的な「国」という意識から「自分は○○人だ」というアイデンティティが生まれると考えると、国民意識などというものは実に不思議なものだと思えます。

さてスーチーは、自身の「国」、祖国であるビルマのために自分の時間や身を捧げて民主化運動に邁進しました。
長年イギリスに住んでいたスーチーは、英国人の夫や子供たちと国を隔てて別れ、15年に渡り軟禁され、離ればなれのまま夫婦の関係も最後は哀しい結末を迎えます。

国のために全てを捧げる覚悟をもち、暴力に対して非暴力を掲げて立ち向かった一人の女性を、私は純粋に尊敬の眼差しで見ています。
しかしそれと同時に、国のためにここまで出来るか?と、少し冷静な目で見てしまう自分もいました。
こんな生き方を選んだ女性がいるということに、なんとなく実感が湧かないというか、外国で長年暮らしていたスーチーにとって祖国とはそんなに苦しんでまで守りたいほどのものだったのかと、変な意味ではなく純粋に理解ができません。

これは「国」とは根本的にそもそも何なのだろうと考えさせられると共に、
自分は戦後の日本国憲法のもとに育った世代なのだなと痛感させられました。
(これに関してはGHQや新憲法の裏話についてなど色々グダグダ語らないと伝わらないため割愛しますが)
ひょっとしたらビルマの国民性や意識として、「お国のために」という感覚が当たり前にあるのかもしれません。
もしくは国民に主権がない混沌とした国家では、平和ボケした私になど分からない、命を賭けて闘うだけの緊迫した動機付けがあるのかもしれません。

けれどどちらにせよ、私はスーチーの想いに同化したり疑似体験をできるほどの感情移入ができませんでした。
まだまだ未熟でお恥ずかしい限りです。


ただ、ひとつだけ確かなことがあります。
戦争(内戦を含め)をやめるべきとかなくすべきとか、そんなことを論じるのはナンセンスなことです。
目を向けるべきは、戦争それ以前の問題です。

戦争以前に、人間は戦争なんかよりももっともっと酷いことを沢山している。
それを棚に上げて反戦や平和を主張した所で、世界は何も変わらない。
戦争や平和など、そんな簡単なものではないのだ。

、、、そんなことを突き付けてくる、非常に厳しい作品でした。


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ちなみに私の戦争に対する考え方を変えた本がこちらです。
それまでは戦争を嫌い世界平和を願うピュアな私でした。

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

ガニメデの優しい巨人 (創元SF文庫)

ガニメデの優しい巨人 (創元SF文庫)

巨人たちの星 (創元SF文庫 (663-3))

巨人たちの星 (創元SF文庫 (663-3))

三冊が連作になっています。
私はある年齢のときにこれを読み、地球人類を「生物」として客観的に考えさせられ、「戦争反対」だとか「世界平和」など簡単に言ってはいけないなと大反省し、今に至ります。