教職母の読書雑考②~読書へのモチベーション
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芸術やスポーツその他文化に没頭したり、人と打ち解けて付き合ったりできることは、モノやカネにかえられない精神的な豊かさだと思います。
読書もまた然り。
たった一度の人生で自分自身という人格を保ちながらも、いくつもの「他人」の人生を疑似体験できるとは、読書ってなんて物凄い贅沢なんだ!と感じるのです。
もともと子供の頃から本は好きでしたし、今でこそこんな呑気なことを言えるオバサンになった私ですが、実は過去には、本を読むことそのものが死活問題だった時期がありました。
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私は幼少期から色々問題を抱えていて、けっこう落ちこぼれた子供でした。
高校時代も、しょっちゅう親が学校に呼び出されるようなティーンエイジャーだったのです(^^;
そんな私ですから、進路決定の時には親に金銭的にも迷惑をかけられず、私立大学への進学は選択肢にありませんでした。
そこで授業料が安いという国が建てた大学へ進んだうえに、お恥ずかしい話ですが授業料もすべて国費から全額負担していただくことになりまして、要するに成績が下がると学業が続けられないという状況になったのです。
大学で単位をとるには、私の専攻はわりと実技や演習も多かったのですが、それでもやはり本を読むことは前提であり必須でした。
大学院のときには、日中は小学校に勤務して、夜間は院の授業に出席しながら修士論文を書くような日々。
地方への出張調査も度々でした。
修士での研究は、特に文系だと先行研究を掘り返さなくては前に進めません。
そのためタイトな時間でも年間に3桁にのぼる文献(明治期の難解なものも含む)を読む必要がありました。
成績が下がったり、論文を書けなくなってしまったりしては、目指していた学位を取れないどころか授業料免除もなくなってしまう。
食べていくために仕事も疎かにできない。
「国民の税金で学業と研究をさせてもらっている」という負い目のようなものも、常にありました。
まさに背水の陣をしいて、20代の頃の私は「本」に体当たりしていたのです。
好きなときに好きな本を読めることがどれだけ幸せであるか、身をもって知りました(^^; 汗
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個人的なことを沢山書いてしまいましたが、そもそも「本を読める」社会というのは、一定水準以上の平和が保たれている象徴のような気がします。
例えばカンボジアのポル・ポト政権下では、図書館や文献資料が徹底的に燃やされましたよね。
独裁政権のもと国民の人権や人命が脅かされる場合、言論・表現の自由どころか活字の保存さえ許されない例は歴史上いくつも散見されるようです。
それに本があったとしても、文字を読めなければ宝の持ち腐れです。
日本は路上生活者でさえ新聞を拾って読める社会ですが、世界にはまだまだ識字率が最低レベルの地域は沢山あり、子供のうちから教育を受けられることの有り難さが身に沁みます。
安全な部屋があり、きれいな湯で淹れたコーヒーなんかを傍らに置いて、余暇に図書館や本屋から調達してきた本を、自分の意思で読むことができる…。
生きたくても銃弾が飛んでくる、飲む水にさえも困っている、学びたくても学校へ行けない、そんな人々が同じ地球に多数存在すると思うと、読書ができるってなんと勿体ないことかと思うのです。
水や食べ物を無駄にするのが申し訳ないように、(欲求の段階※は異なりますが)、本を読めるチャンスを無駄にすることも同じように申し訳ないことだと感じてしまいます。
※ by.マズロー